貧困も差別も戦争も、全部ぜんぶ、なくなったら


「セカンドチャンス!」という団体の設立者であり、

静岡県立大で社会学を教えている津富先生にお話を伺うため、静岡に行ってきました。

先生とお話する中で、気付きと学びの脳内スパークリングが起きたので、

最近考えていることと合わせて、記録しておきたいと思います。

 

*「セカンドチャンス!」とは、

少年院を出所した人たちのネットワーク・グループ。

定期的に集まって交流して、話したいことを話す。

就職支援などの具体的なサポートはしておらず、あくまでも居場所を作ることが目的。

 

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「当事者」同士で作っている自助グループ、

それは、参加している人々にとっては、計り知れない大きな存在であることが多いですが、

そうでない人々にとっては、未知の世界であることが多いのではないかと思います。

 

そこで行われていることの多くは、「語り」だと言えます。

語ることで、その場にいる仲間と、

投げ掛ける言葉、それにくっついている感情、表現される心の内…そういったものがシェアされる。

受け取った方は、

自分の中にも似たようなものがあることに気付く。

あるいは、似た経験をしても、違ったものを抱いていたことに気付く。

 

今どんなことを感じているか、考えているか、なぜ自分がそういうふうになってしまったのか、

これからどうしていけばいいのか、

そんなことを、ただただ「言いっ放し、聞きっ放し」のミーティングで分かち合う。

批判もアドバイスも受けないけれど、

先に回復を始めた「先輩」の話を聞いたり、気持ちの共有をしたりするうちに、

少しずつ、今まで歩いてきた道を見つめ直す。

そんな作業が行われているのがグループなのではないかと思います。

 

回復のためのプログラムを積極的に取り入れるなど、

独自の活動をしているところもあると思いますが、

要は「少し先行く当事者」が「今困っている当事者」、

すなわち、少し前までの自分を助けること。

それがここで行われていることなのかもしれません。

 

 

語ることを通して、「自分だけが特別」「私だけが変」だと思ってきたことが、

案外そうでもなかったことに気付く。

客観的に、かつ主体的に自分の人生を振り返ることができ、

そして、少しずつ、新しい人生を選択できるようになっていく。

 

さらには、そうして自分のストーリーを語ることで、

思いがけず、それが誰かの役に立つ経験をする。

自分に「役割」を見出だす。

 

誰もに、そんな場所があってもいいのかもしれません。

 

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ここで、

最近、ある本の世界で味わった不思議な体験をシェアしたいと思います。

 

 

それは、完璧な秩序に基づくコミュニティの中に広がった世界。

 

そこではどの家庭にも父と母がいて、子どもがいて、両親は仕事に就いている、

人々はみな、12月31日に揃って1つ歳を取る、

子どもたちは7歳で自分用の自転車を贈られ、女の子は9歳でお下げ髪を切り、

みな12歳で将来就くべき「仕事」の任命を受けて見習いを始める、ということになっています。

「仕事」は、子どもたちの適性が見極められ、教師や医師から配達員、単純作業の労働者まで、

すべての役割に尊厳を持たせて、厳正なる審査を経て、誰にも不満が生じないように定められます。

 

その仕事の一つに、「出産母」というのがあります。

 

コミュニティの仕組みとして、

人々は、配偶者を得たいと思った時に「配偶者申請」をし、

家庭に子どもを迎えたいと思った時に「子ども申請」をするようになっています。

子どもは全て「出産母」の役割を与えられた人々が産み、1歳になるまで「保育士」が育てます。

夫婦も親子も、第三者によって、最高の相性になるようにマッチングされ、与えられるのです。

そして老年期に入ると、全員が老人ホームのような施設に入所してケアを受け、

一定の年齢に達せば、祝福されて「解放」を受けることになっています。

ここは、ガチガチに固められた規則がある分、誰もが平等で、将来への不安も、差別や偏見も、貧困や紛争もない社会。

 

人々は、「予測可能」な仕組みの中で生きているのです。

これは、「合理化・効率化」を突き詰めた結果、

均一化されてしまったという、将来的な社会の姿として描かれています。

 

私は最初、なんて調和の取れた社会モデルなのだろう、と感じ入りました。

十分に一人一人の適性を見極められた上で、一人残らず役割を与えられる。

みなが平等で、得意なことを活かし、助け合って生きている世界。

これが、幸せの一つの形…?

 

 

しかし、読み進めるうちに、このコミュニティのゾッとするような一面が明らかになっていくのです。

 

人々は、思春期以降、「情念に邪魔されないよう」性衝動を消す薬を服用し続け、

生殖を「出産母」たちだけに集約するようにコントロールされていきます。

肌の色や髪の色での差別を絶つために、「色」の認識ができないよう遺伝子操作がなされていきます。

「死」への恐怖をなくすために設定された「解放」は、実は安楽死のことであり、

養育困難となった子ども、規則違反を重ねた罪人、老人…そして障害を持つ人は、みな安易に安楽死をさせられていきます。

さらに、申請することで、第三者によって宛てがわれる「家族」では、

憎しみや争いも生まれないものの、「愛情」といった感情も生起しなくなってゆくのです。

 

これらは、私たちが聞けばゾッとしますが、

全てが最初からそのように設定された世界に生まれ落ちていれば、どうでしょう?

争い、差別、貧困、障害といった負の要素が全て排除された世界に。

 

 

負の要素を排除した代わりに、その世界が失ったものとは何だったのでしょう。

 

主人公の少年は、あるきっかけで、そのコミュニティのひずみに気が付いてゆき、

その世界には代替不可能な「愛」や「自分だけの感情」がないことに違和感を感じるようになり、

最後には、それを取り戻すために、コミュニティからの決死の脱出を試みる、というのが本の主題です。

 

 

築き上げられた世界観に引き込まれて、一気に読んでしまったこの物語は、

ロイス・ローリー著『ギヴァー 記憶を注ぐ者』という古い児童文学作品。

この中で大胆な実験を試み、表現された世界観からは、

この本が書かれた約20年前において既に、著者が、かなり鋭い眼光でもって未来を見据えていたことが分かります。

 

 

この話は、ただのSFの世界の描写に過ぎないかもしれません。

 

しかし。

生殖技術が進み、

自分の好きなタイミングで子作りをするために卵子凍結をしたり、

有能な遺伝子を残すために出生前診断をしたりすることが可能となり、

生命までもコントロールできるようになりつつある現代。

これまで、何よりも効率化第一に物事が進んできたことに対して、

そろそろ見直しを始めなければ、

本当に大切なことが見失われてしまうのかもしれません。

 

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私自身、「平等」だとか「平和」だとかいうものについて、

少し偏ったイメージを持っていたのかもしれない。

読後、そう感じ始めました。

 

平等や平和を阻害するものには、タイプが2つあると思います。

一つには、争い、差別、貧困など、

コミュニティ全体で抱えているもの。

それから、障害、病気など、属人的なもの。

 

後者については、それを「排除」することとは、

すなわち、人を排除するということになります。

 

かつて、障碍者は、家から一歩も出ることが許されない時代がありました。

精神障害者に至っては、「座敷牢」という家の中の「牢」に

家長が閉じ込めておかねばならない(そうでないと家長を罰する)という法律があり、

徹底的に社会から「排除」を受けていた時代がありました。

 

当時に比べ、今は、全ての人に人権や平等が憲法では保障される時代にはなったけれど、

実際に「排除」がなくなったのかというと、

人々の意識の上では、そうではないのが現実だと思います。

 

「病気」や「障害」を、なくす方向に努力するというよりも、

病気や障害を抱えたまま、そのままで生きやすい世の中。

それこそが、これから目指すべき世の中なのかもしれません。

 

生きていくのに不自由でなくなったとき、

病気も障害も、ただの「個性」の一つとなるのかもしれません。

 

 

争い、差別、貧困を撤廃し、

全ての人が等しく均質化された時代を生きるのが良いのかどうか、

その問いは、「社会主義」が崩壊し、「資本主義」を人々が選択したとき、

人類が既に答えを出したのかもしれません。

 

逆に「社会主義」は成立し得なかった、

なぜなら、人には「意思」があるから。そう言い換えることもできるかもしれません。

 

自分自身が、自分の選択で、人生を選び取っていく。

それは「自由」が大切だというハナシではなく、

人が本来、本質的に持っているものが、どうしても自由を志向するのだと思います。

この世を創造したものが、そのように設計したとしか思えないのです。

型に嵌められ、定型ルートを歩くだけでは、人の心は落ち着かない。

きっと、自分の人生を自分の手に取り戻したくなるのです。

 

誰かの基準に合わせることが平等ではありません。

自分がそのまま、自分で良いんだと認められる社会。

 

相手と自分の違いを、訳も分からず愛しているうちに、

理由なんてない衝動に突き動かされて、二人の間に子どもができたりする。

その誕生した新しい生命が、産み落とした人の人生をプラスの方向に引っ張ってくれたりする。

 

予測不可能な中に、自分なりの「真理」を見出だす、

それが生きていくことの醍醐味であるのだと。

 

決して誰かの基準に落とし込まれることなく、

自分らしく自分の人生を生きることこそ、

人が本質的に求めているのだということ。

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津富先生に、社会的養護(施設や里親)で育った子どもたちの声を

社会に届ける活動(アドボカシー)がしたいのだとお話したとき、

先生は、「アドボカシーが必要ない世の中こそが、目指すべき世の中なのかもしれないね」

とおっしゃいました。

 

アドボカシーの研究もされている先生からそんな言葉が出てくるなんて思いもよらなかったのですが、

本当にそうだと感じました。

 

そのままで、自分のままに。

互いに手を取り合う社会。

 

まだまだ、模索を続けたいと思います。


About Mutsumi

龍庵塾でブログを担当している「むっちゃん」です。 ペンネーム:芦田むつみ コモンセンス・ペアレンティング・トレーナー


2 thoughts on “貧困も差別も戦争も、全部ぜんぶ、なくなったら

  • イブ

    「人が本来、本質的に持っているものが、どうしても自由を志向するのだと思います。
    この世を創造したものが、そのように設計したとしか思えないのです」
    そう感じます。
    そして、沢山の問題が起きてることで、
    「そのままで、自分のままに。互いに手を取り合う社会」へと
    進んで行ってるようにも思う。

    • Mutsumi Post author

      イブさん、うなりました。
      まさに!そうですね!!
      あの地震が、世の中の方向を大きく変えてくれました。
      「問題」こそが、私たちの進むべき方向性を示してくれている、
      そう感じます。
      ただ、そう感じ続けるには、いささかキツいこともあるだろうけれど、
      ふっとそんな感じが心を過ることがあります。

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